幸せの尺度
それなりに幸せだった。 結婚して10年。3人の子供にも恵まれ、中古ながら市街地に住宅も購入できた。
私は地方都市にあるテレビ局のディレクター、人一倍仕事をしてきた自負もあるが、担当番組の視聴率も順調に伸びていた。一生懸命仕事をして、適当に遊んで。楽しい毎日だった。
そんな私に人生観を変えるほどの出来事が起こったのは、平成3年2月2日。
ちょうど私の37回目の誕生日のことだった。

3歳になる娘が「小児がん」と診断されたのである。わかったときには既に頭の中から足の先まで全身に転移していた。1年ほど前から娘は足のかかとが痛いと言っていた。近くの整形外科や総合病院、そして整骨医とまわったが一向に良くならない。症状が出ては消えていた。先生達は「精神的なものでしょう」と言っていたがとうとう這って歩くようになってしまった。 そこで、県立のこども病院で診てもらうことにした。
全国でも有数の医療を誇るこども病院だが紹介状がないと診てもらえない。「精神的なものでしょう」という医師に紹介状は頼めない。困ったあげく、10年ほど前に県立こども病院を取材した時の医師の名刺を頼りに電話してみた。医師は快く応じてくれた。指定された日、娘は妻に連れられ診察を受けた。
その医師は偶然にも血液腫瘍科の医長先生だった。
そして、「整形外科の先生に足を診てもらう前に、私が内科の検診をしましょう」と診てくれた。
そこで病気が発覚したのである。

その日帰宅すると妻は一人、2階の真っ暗な部屋で泣いていた。
「神経芽細胞腫、ガン…」
「白血病に次いで多い…」
「全身の骨の中にまで転移…」
「遅かった…」
「偶発的発病、原因不明…」
「抗ガン剤、放射線、手術…」
「治療しても2年後の生存率2割以下…」

まさか… 胸にぽっかりと大きな穴があいたような空虚な私の体を、妻の言葉が断片的に通り過ぎていく。
少し生意気な口をきくようになり、どんな仕草も可愛い盛りの3歳の末娘。その娘の命が明日にもなくなるかもしれない。そんなバカな…。身の置き場のない、どうしようもない気持ちが全身を包んだ。夫婦2人の沈黙。
長く、暗い涙の時…。しかし子供達に涙は見せられない。何があっても命を救おう。この世に生を受けた、自分より先に子供を死なせてなるものか。営々と続いてきた‘人の道’に反することはできない。これも試練だ。
乗り切ろう。とにかくこれからどんなに辛くとも、笑って頑張ろうと妻と2人、心に誓った。

入院。抗ガン剤の副作用で髪の毛が抜け、吐き気も激しい。吐くものもなく、点滴で入れている抗ガン剤、胃液、さらには腸液までも吐く。完全看護で面会時間は午後3時から5時。治療中は苦しそうで、見ているのも辛いが、行けば本人も喜ぶのでなるべく面会に行くことにした。一緒にいる時間が惜しい。今までは人一倍仕事をし、夜も遅く帰り、休日もなく、ほとんど母子家庭の状態だった。しかし、娘が入院してからは仕事は他の人でもできる。でもこの娘の父親は自分しかいないと強く感じるようになった。元来貧乏性の私は何でも自分でやらないと気が済まない質だったが、これを機会に変えることにした。面会時間に行けないなら、仕事を辞めてもいいと思った。幸い上司も理解してくれたのでありがたかった。仕事を抜け出し面会に行くものの、帰りがまた辛い。苦しんでいる娘をおいて、「帰っちゃイヤだ」と泣け叫ぶ娘をおいて帰る時、一人車を運転していると、涙でフロントガラスが曇ってしまう。涙を拭い、深呼吸をし、気持ちを入れ替えて職場の扉を押す。そんな毎日だった。

娘の苦しげな表情を見て、辛い思いをしたのは私だけではない。妻もそして私たちの両親も同じだった。
一人が精神的に落ち込むと互いに励まし合ったが、皆それぞれに体の具合も悪くした。そんな心痛がさらに新たな問題を引き起こした。大人達がそろって末娘に目がいっている間に、他の兄弟が精神的に不安定になっていったのである。8歳の兄は、親に内緒でお金を持ち出し、ゲームセンターで遊び、おもちゃを買って隠し持つようになった。一時はお金を持たせていないのに沢山のおもちゃが出てきたので、盗んだのではないかとひどく心配した。また10歳の姉も、足が痛くて歩けなくなってしまった。妹の症状と同じで心配したが、病院で診てもらうと異常はないという。2人とも成績も下がった。そこで絵画による精神カウンセリングを病院で受けることにした。 2人とも親に対しての反発心と、心の寂しさを持っているとのことだった。
3人の子供の1人が死ぬか生きるかの局面に立たされていれば、当然何をおいてもその子に目を向ける。
が、日数が重なるにつれ兄弟も、頭ではわかっているものの押さえきれない不安感や欲求不満が出てくるのであろう。その後カヌーに行ったり、ボーリングに行ったり、一緒に遊ぶ機会を事あるごとに作るようにしたが、一人の病気は家族に色々なことを勉強させてくれた。

娘の外泊が許されると、とたんに家中が明るくなった。治療で髪の毛もなく、やせ衰えた体だが、普段は面会もできない兄弟と一緒にいるとまた体の違う所から元気が湧き出てくるようだ。 笑うと白血球が増すと本に書いてあった。皆で大いに笑う。兄と姉も「妹が帰ってくるとお母さんが優しくなる…。」家族の深い幸せを感じる瞬間である。

周りへの感謝と、当たり前に過ぎる日々の幸せを感じながらも、永く、苦しい1年が過ぎようとしていた。
10回に及ぶ抗ガン剤投与。ガンの原発である副腎の摘出手術。そして最後まで陰の消えない頭蓋骨への放射線照射。それらの辛い治療に耐えた。元来生命力の強い子なんだろうか。心配された薬による内蔵への副作用もそれほどひどくない。腫瘍の影も目で見る限りほとんど消えた。今まで先生の言葉には再三脅かされ、涙してきたが、そんなに悪くはなかったのだ。薬も良く効いたのだ。良かった…。しかし、安心したのもつか間だった。細かな検査の結果、まだ大量のガン細胞が血液中に生きていることがわかった。このままだと再発の危険性が非常に高いという。残された道は2つ。
1つはこのまま間隔を置いて同じ治療を続け、再発を押さえていくか。もう1つは最近の医療である骨髄移植に踏み切るかである。骨髄とは、骨の真ん中にあって血液を作り出すところである。フライドチキンの骨をポキンと折ると真ん中に赤いところが見える。そこである。骨髄移植とはその骨髄の細胞を猛毒ともいえる大量の抗ガン剤と、放射線によって一度死滅させ、改めて良い骨髄を注入し生き返らせようというものである。命がけの荒行事である。
この治療は、血液の細胞を一度壊すもので、白血球も0にまで落ちる。白血球は雑菌に対して抵抗力を持つもので、患者は完全無菌室に入って治療を受けなければならない。
こども病院には無菌室が昨年完成し、今までに4人が移植を受けている。しかしそのうち2人は既に亡くなっている。
(その後他の2人も亡くなった)完治を目指すなら移植の方がいい。しかし危険性も高い。
さらに問題は、移植する骨髄である。血液中の6つの型(HLA)が同じ骨髄でないといけない。兄弟間では4人に1人の確率だという。我々夫婦は悩みに悩んだ末、再発におびえるより最新の医療を信じようと移植をお願いした。
早速兄弟の検査が行われた。すると驚くことに二人とも妹と同じ型だった。兄弟三人が同じということは珍しい。
神はまだ私たち一家を見放していない。と感じた

そしてさらに朗報が来た。娘のガンには一つの特徴があって、それを利用した治療法が、東京の日大板橋病院
で開発されているという。その特徴とは神経芽細胞腫の細胞は、何故か鉄分に反応するのだという。そこで考えられたのが、患者の骨髄を取り出し、その中に鉄粉を入れたあと、強力な磁石の中を通してやる。すると鉄と一緒にガン細胞が磁石に吸い寄せられて、骨髄がきれいな正常のものになるという。俄に信じられないような話である。
が、この方法だと自分の骨髄を取り出し、きれいにした後、もう一度自分の体に戻すもので、他人からの移植と違い、拒絶反応などのリスクが少なくて済むということだった。たまたま主治医の先生が日大出身ということもあり、そちらの病院にお願いして骨髄採りだしの手術をしてもらえることになった。日大病院に転院しての手術は、骨髄が今までの治療で痛めつけられていることと、白血球が少ないことで予定より遅れたが無事終わり、取りだした骨髄はきれいにした後冷凍保存された。 しかし、手術後の先生の説明は芳しいものではなかった。
鋭い矢のような言葉が我々夫婦の胸に突き刺してくる。
『まだ全身にかなりのガンが残存』
『取りだした骨髄も治療でかなり弱っている。果たして治療に使えるかどうか。シャーレの中で実験してみて増殖が見られれば使う』
『今までかなりの抗ガン剤を使っているので腎臓、肝臓、聴力に影響が出る可能性がある。又これから薬が効かなくなることもある』
期待してきた東京で妻と私は再び落ち込んでしまった。
1年に及び涙をこらえ、病室で必死に笑顔を作ってきた妻も、この日ばかりはまた泣き崩れてしまった。
数週間後、取りだした骨髄が使えることが判った。
子ども病院で初めて、自家骨髄移植が行われることになった。移植中に他が具合が悪くなると命取りにもなり
かねないと、全身の検査が行われ、虫歯も治療した。また無菌室で使うものは全て消毒された。紙おむつは子供用では小さいと大人用のSサイズを買いに走った。どの薬局もSサイズはあまり置いていない。市内のほとんどの店をまわって買い占めた。そして4月。準備万端移植に臨んだ。

平成4年4月7日、いよいよ治療開始。5日間の抗ガン剤投与。3日目から吐き出したが意外と本人は元気。
続いて全身への放射線照射。3日目、皮膚の色が日に焼けたように黒くなる。血小板が下がる。
白血球も0になった。

4月16日。
冷凍されたまま東京から赤色灯に乗って運ばれた骨髄を解凍し、注射で入れる。
これが増殖し、自分で血液を造り出す2週間の間に発熱や炎症が起きなければいいのだが…。
そんなトラブルは死を意味する。

二日目。
血小板が2万を割る。2万を切ると出血したとき血が止まらなくなる。血小板は補充が必要。
会社の人に献血を依頼。以後ほぼ1日おきに輸血。

三日目。
熱が38度になり、本人もぐったりとした様子。看護婦さんがつきっきりで、本当に良く面倒を見てくれる。
今のところお尻の炎症も起きていない。

四日目。
薬をいやがる。一時間かかってようやく飲む。お腹も痛がる。

五日目。
吐き気は一日3回ほどだが吐くものがなく、黒い胆汁までも吐く。ガラス越しに“ガンバレ”と言うと、うつろな目で合図を返す。

六日目。
鼻血が止まらない。急いで止血剤と血小板を輸血。飲み込んだ血を大量に吐く。パジャマも血だらけ。
胸が痛いという。妻、心臓が止まる思い。

七日目。
髪の毛全て抜ける。39度7分。眠っている。目が開いて親を見ても反応無し。時計の針がなかなか進まない。
長い長い一日。

八日目。
体中に皮下出血の斑点。血小板が異常に下がると出るという。急きょ会社の人に病院まで走ってもらい採血。
妻、無菌室前室に入れてもらう。ビニール越しに手を握ってやると顔にかすかな表情。

九日目。
再び鼻血が止まらない。鼻には細く切ったガーゼが10枚ほど詰めてある。口で息、苦しそう。熱39度。
お腹が膨れ上がる。

十日目。
相変わらずお腹痛がる。お腹と胸のレントゲンを撮る。胃が膨れているだけで異常なし。気が少し楽になる。

十一日目。
お腹が膨れると思われる薬を止めてみる。とたんに腹痛がおさまり、鼻血も止まる。夜には鼻に詰めてあったガーゼも取る。お腹が良くなり鼻も通ってすっきりしたのかスヤスヤと眠る。気持ちよさそう。
しかし薬を止めたことで下痢が止まらなくなる。

十二日目。
無菌室前室に私も入る。またお腹が痛いという。ビニール越しにさすってやる。良くなってくれと念じつつ。
ハンドパワーを信じる。

十三日目。
ハンドパワーが効いた。のか、調子がいい。熱も37度5分に下がる。
「家に帰りたい」
「お姉ちゃんに会いたい」
「薬イヤ」
わがままを言い出す。これも良くなった証拠か。

十四日目。
突然未明に下血。血小板が7千にまで下がる。午前4時、血液センターから血小板と全血を急きょ取り寄せ緊急輸血。
昼過ぎに少し元気になる。血小板も4万に上がる。食べたい意欲はあるが口へ持っていくといらない。
熱は38度5分。下痢も少し良くなる。

十五日目。
チョコレート食べたいという。一つ口に入れると嬉しそうだ。が、次の瞬間悲鳴を上げる。口内炎に滲みたようだ。

十六日目。
待望の白血球が500認められる。骨髄が増殖をはじめ、血液を造り始めている。血小板2万。
熱37度4分。下痢も少し固くなってきた。

その後も鼻血が出たり、腎臓障害で身体にむくみが出たりしたが、徐々に白血球も上がり本人も元気になって
きた。そして40日目の 5月25日、とうとう無菌室を出ることができたのである。

夢のような話しである。それから2ヶ月も経たない7月15日、何と退院の日を迎えたのである。骨髄移植は究極の治療であり、今後は今までの抗ガン剤治療はもうやらないという。非常に強力な薬を使ったのでこれからはもう弱い薬を入れても意味がないという。また大量の輸血によりC型肝炎にも感染した。
そしてこれから娘が成長する中で、胸からお腹にかけて大きく残った数カ所の手術痕は精神的十字架にならないだろうか。何より再発はないだろうか。心配すればきりがない。今は完治を信じるしかない。しかし、あれだけ苦しい治療に耐え、幾度か生命の危機を乗り越えた娘のことだ。きっと強い生命力が宿っているのだろう。たくましく生きていくだろう。大丈夫だ。

娘の移植の成功は、後に続く同じ病気の人たちに大きな希望の光を与えることになった。そして先生方や看護婦さんに言葉では言い尽くせぬほどの感謝の気持ちでいっぱいである。思い起こせば1年半、本当に永くて辛い、苦しい時の積み重ねだった。が、しかし、本当に日々の幸せを実感できる日々でもあった。
そしてラッキーだった。たまたま10年前に取材をした医師が血液腫瘍の専門家であり、担当の主治医がこの
病気では一番医療が進んでいる日本大学医学部の出身だった。日大への転院も許され、そちらの先生にも診て頂けた。また病気の発見も遅れたが、もし1年早く見つけていても骨髄移植はまだ技術的に不可能だったであろう。逆に、もう少し遅くなっていたら手遅れだっただろう。こども病院に一つしかない無菌室にもタイミング良くすぐに入ることができた。娘の成功が引き金になったのか、移植も広がり今では半年以上待たなければならない。何よりその間の病状の変化が心配だ。

娘の病気は多くのことを教えてくれた。私の人生観、価値観も大きく変えた。毎日の生活の基盤は家庭にある。当たり前のことである。が、しかし家族の一員が 突然亡くなるかもしれないという現実を前にした時、初めてうろたえ、怯え、家族の大切さが身にしみた。夫婦の絆も深まった。子供とのコミュニケーションもとるようになった。 仕事も大事、つきあいも大事、遊びも大事、だが家族揃って平凡な日々を送ることが何にも増して大切で、幸せなことだと実感するようになった。退院して一ヶ月。娘は今、髪の毛が少し生えてきた。
壊れた爪も生え代わってきた。きょうも元気に外を走り回っている。そんな娘の姿を見るにつけ、私は一年半前以前の幸せとは比べものにならないほどの、世界一の幸福者だと感じている。

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あれから早13年、いま娘は高校2年生になった。その後誕生した妹も小学校4年生。衛生短大を卒業した姉は横浜の病院に勤務、兄は大学3年生。妻も長い子育てに忙しい。もう再発はないと思うものの心配はつきない。娘はこの間にも放射線の副作用と見られる甲状腺のがんが発覚し手術を受けた。耳の下のリンパ腺が腫れて手術を受け、また肝臓に陰が出来て手術を受けた。歯が弱くなって歯科に通い、背が伸びないので成長ホルモンの注射を毎日自分で打ってきた。薬も欠かせない。また最後まで頭の陰が消えず放射線を頭に多くかけた影響か、頭の頂上部の髪が非常に薄い。知能障害が出るかもしれないといわれた。が、今のところそんな様子もない。年頃になって最近髪の毛が気になりだしたようだが、元気いっぱい明るく積極的である。一家6人それぞれに悩みはつきないものの明るく暮らしている。

平成16年8月