藤田恵子
13歳・中学2年の夏、発病。(H5.7)
市内の病院(市民病院)に、検査入院した。初めは、前日に食べ過ぎた為にお腹が痛いと思い、軽い気持ちで本人も家族も入院したが、市民病院での検査手術の結果、”悪性リンパ腫” と判明。

op後、40度近くの熱が続く…その中、化学治療を始めなければならない状態になった為、危険な状態ではあったが、1回目の治療を始める。この時に母から軽く告知された。
軽くというのは、”悪性”という言葉を除いてただ単に”リンパ腫”と告げらた。そして、治療をする事により髪の毛が抜ける…という事を聞かされた。その時、自分の中で”ガン”なのかとも思ったが、”ガン”という事態に考える余裕はなく、その時の体調の悪さに耐えることで精一杯だった。

そして、1回目の治療が終わり少しずつ髪の毛が抜けてきた。…母から聞いていた とはいえ、あまりにもショックで誰にも髪の毛を触らせなかった。そのうち、すずめの巣みたいになってきてしまったので自分の中で見切りをつけて、母に髪の毛を切ってもらった。

その後の治療はあまり良くなく、治療をして血液の数値が下がると40度近くの熱が10日〜2週間近く続いた。このような状態が継続した為、市民病院の先生方の結論で骨髄移植をすることになった。 (私は血液検査の結果、姉 とHLAが一致)市民病院では、移植が出来ないので県立こども病院へ転院することになった。転院してから1週間で、腸が腹膜を破って出てきてしまい緊急opとなり、14時間のop を受けた。
op後は、私自身つらく、精神的に疲れてしまい母に”今なら死ねる…殺してほしい…” 等の事を言っていた。結局このopで良くなり外科病棟から血液科病棟へ戻ってからは治療がうまくいくよ うになった。

この頃からずっと休んでいた学校(訪問教室)にも通うようになった。通うようになった時は14歳・中学3年の6月でした。 私が病気と闘ってこれたのに、”学校へ行きたかった…”事が何より強かった。
元気だったときは”行きたくない”と思っていたが、本当にいけなくなると無性に行きたくなる…(人間の心理だと感じます) 私はその中でも”部活”に行きたかった。今思えば、何が楽しくて行きたかったのかはわからない…(*_*) 顧問の先生は嫌いで後輩もかわいくなくて…と不満な事ばっかりだったけど、その中で楽しくやっていた自分がいたから部活に行きたいと思って闘っていたんだな!と思う。

あとは、やっぱり治療の辛さが嫌で、我慢できなくて1日でも早く終わらせて元気 になりたい…という気持ちが本当に強かった。私は、比較的いつも前向きに病気の事・治療の事を考えて、闘ってきた。
でも、そんな気持ちの中にも自分を抑えられない時もあって、市民病院にいた時は治療が順調にいかない、Dr. Ns.スタッフへの不満が募り、精神的に辛く、いつもDr. Ns. 家族に迷惑ばかりかけていて治療が順調にいかない、体調が悪いと きは ”病院の屋上から飛び降りたい”と死ぬ事を考えていました。

こども病院では、リハビリ(理学療法:PT)の問題もあった。私は、10ヶ月間寝たきりで8ヶ月間車いす生活をしていて1年半は全く歩いていなかった。そして、治療が順調に終わりに近ずき年末には退院できる…と言われたが歩くことができないまま 学校へ通う事も、家のなかで生活する事も困難なので、リハビリの為に入院を伸ばしてもらい、リハビリをする事になった。初め、私は退院したくて、したくて、歩けなくても帰るといって親を困らせてました… そんな時に私の相談にのってくれたのが担当の看護婦さんだった。

その後、リハビリを受けた。1ヶ月間、集中的にやりなんとか、松葉杖や杖をもって少しずつ歩けるようになった。また、ちょうど中学3年という事もあって高校受験をどうしようか?と考えていた。一時期は高校へは行かない…と言っていた時期もあった。私が受験をしないと言っていたのは、中学2年の2学期から3年の6月まで全く勉強をしていなくて、もともと勉強も好きじゃなく(バカだったから) 高校受験は絶対に無理で入れてくれる学校なんて無い…と思っていた。でも、親の説得もあり、受験はする事にした。 それでも、私立は絶対に嫌でだった。その理由として、私立は中学での成績がある程度あれば、話し合いで入れてくれる…という事を中学の担任にいわれたからです。
私は、話し合いで入れてもらうのは本当に入れてあげる…という感じがして嫌だったので、受験をするなら県立でないとしないことを親・担任に伝え、県内にある単位制の学校を受験し、合格した。
(H7年度入学し、 H10年度3月卒業)現在は、入院していた時から将来は医療関係の職につきたいな!と感じていたの で、県内にあるリハビリの養成校(専門学校)へ通っています。(H11年度入学)将来は、作業療法士:OTになりたいと思っています。

入院していた時の不満や不安・嬉しかったことは数えきれないくらいあります。で も、今はときが経ってしまいほぼ忘れてしまってはいますが、その中でも特に感じたことは、(時代の変化で現在とは異なる事もありますが)市民病院にいた時は、まず第一に主治医が気にくわなかった。(現在は違います。)自分のことなのに、その時の状態や検査結果を全くと言って言い程わからなく、教えては貰えなかった。
いつも部屋のドアをノックして主治医が ”お母さん… ちょっといいですか??”と言って私、本人にはいつも教えてはくれなかった。

こども病院へ転院してからは、血液の数値や検査結果は本人に教えてくれるのが嬉しかった。(私は告知をされていたから、余計に自分の状態を知りたかった。)いまいちわから ない医学用語の事でも、知りたい・聞きたい気持ちがあったから、 こども病院へ転院した頃は、主治医に自分の病気の事や骨髄移植の事をいろいろ聞い ていました。今思えば、転院した頃は、新しい主治医や看護婦さんで今までいた環境との違いが不安の元でもあり自分の殻の中に入っていたなと感じます。

私が入院中によく言われてムカッときていた事は、”もう大きんだから” ”大人なんだから” ”お姉さんだから”と言われた時だっ た。当時13〜15歳であったから…というのもあるが、検査によってはかなり痛いし、痛いものは痛い・我慢ができない時はさけんだり、泣いたりもする…と当時はよく思っていた。
結局、どうして病気と闘ってこれたか!?に関してはその時々で様々ですが、こればっかりはどうしようもないというあきらめではないですが、単純な考えがよかったのかな!と感じます。

私は市民病院にいた頃、隣りの病室で同じ病気で1つ年上の男の子がいました。 その子は、治療の際は吐き気が強く、(私は治療は辛くはなかった)大変だが私は治療後が最悪な状態になっていたのに、男の子は治療後は全く平気だった。この男の子 が、僕は病気じゃない!治療をしているんだ。
と言っているのを聞き、私もそうだ! と考えるようになった。病気と考えてしまうと、精神的に重荷だと私はかんじます。それを、いかに自分で考えていくか?!(又は家族が考えるか?!)が大切ではないかと考えます。あとは、絶対に病気に負けないとか…最後までやりきってやる等の目的や目標を持つことが大事だと思う。悩みや不満がある時は、何に対しても1人でかかえこまない(自分の世界に入り込まない)で、ちょっとした事でも話す事がいいと思います。

この他にもたくさんの経験をしました。 でも、文章にするのはとても難しいです。 この、経験で私自身以前よりも強くなったと思います。病気になった事は、一般的に みれば”不幸”なのかも しれません。
それでも、私は病気をしたことで”命の大切さ”や 将来の目標がみつかった事…多くの事を取り込められて良かったと感じています。そして、病気と最後まで闘ってこれたのに、何より家族の支えであり、言葉では現せ ない感謝があります。他にも、友達からの励ましの手紙・中学の担任の理解力・病院関係のスタッフの方々のおかげだと思っています。

私の経験がどこまで参考になるのかはわかりませんが今、病気と闘っている方をはじめ、かげで支えている家族の方々の為に力になれることはしたいと思っています。 前向きに頑張って頂きたいと感じます。