大橋理香
長男が横紋筋肉腫で平成5年6月から平成6年12月まで入院。

長男が発病したのが平成5年6月10日でしたのでちょうど今年で丸3年になります。当時3歳だった長男が今春ピカピカの1年生となり重いランドセルを背負ってヨロヨロ歩いていく後ろ姿を見送り、「こんな日が来るなんて……」と思う今頃です。

脳に腫瘍のある病気でしたのでまず手術で摘出。その手術が7月7日七夕であり、子どもの願いを聞いてくれるはずの七夕が「悪性腫瘍でした」の一言で裏切られ七夕さえも憎らしくなってしまいました。
術語1週間後から残存細胞に対し、化学療法、放射線の治療が始まりました。その当時まだ、吐き気止めの薬がなく面会に行く度に苦しそうに吐いている我が子の背中をさすってやる毎日でした。そんな息子を少しでも‘笑顔’にしてやりたいと思い、来る日も来る日もおもちゃを買い与えていた母親でした。
(おもちゃさえ与えていれば喜んでくれる) しかし3歳とはいえ息子の心理状態は私が思っているほど単純なものではなく、大人並の感情だったのです。

入院した人は誰でも「家に帰りたい」と家庭を求めます。次第に買っていったおもちゃの梱包も開けなくなり「お母さんこれ家に持って帰って。家に帰ったときに遊ぶから」と。 初めてこぼした息子の本音が胸に刺さりました。どんな高価な新品のおもちゃでも病院内で遊んでいては楽しくなかったのです。子どもに教えられるとはこのことです。それなら「家に1日でも早く帰られるようにお母さんと一緒に頑張ろうね」その時初めて私と息子の“外泊”という目標に向かって病気と闘う一歩が踏み出された気がします。その頑張りが通じたのか、その2ヶ月後「外泊」することが出来ました。腫瘍の方も化学療法と放射線のダブルパンチが効いたようで徐々に小さくなっていき、入院から7ヶ月後(平成6年2月)には腫瘍は消滅して退院することが出来ました。

しかし化学療法はその後も続けられ、毎月5日間だけ入院して投与するという状態が(平成6年9月)まで続きました。
そして平成6年10月末梢血幹細胞移植のため再度入院。検査、前処置などで10月の1ヶ月は過ぎいよいよ無菌室へ。そのころ、末梢血の移植は個室で出来るようになっていたのですが、部屋が空いていないということで無菌室で行うことになりました。
「移植」を決断したものの
「本当にこれで良かったのか?」
「移植はうまく行くだろうか?」
「4歳の子に無菌室は耐えられるのだろうか?」
「今ならまだ止められる」
「いや完治のためには」
心の葛藤が続きました。

しかし無菌室に入ってしまうと不思議に落ち着き「よし1日でも早くここから出られることだけを考えよう」その気持ちは母親が分娩台の上で思う覚悟に似ていた。息子の方も年を重ねるごとに精神的にも強くなり、5時になると「帰らないで」と泣いて私を引き留めていたのが、移植時には「5時だから保育園に妹のお迎えにいってあげて」と言うほどお兄ちゃんになり、周りを見られるくらい落ち着いた状態でした。
無菌室で面会時間がフリーになったので少し早い時間に行くと、ガラス越しに「だめだよ、まだ3時じゃないから婦長さんに怒られちゃうよ」なんて、息子に怒られるとは。 幼いながらも長い入院生活の中で午後3時から5時の間しか母親に会えないということを身体で覚えたのでしょう。 なにせ3歳で時計の針すら読めないのですから。

移植前々日肝臓機能が悪いので予定日に移植が出来ない…化学療法が強すぎて肝臓に影響…「ここまできたのに移植できないなんて」 発熱し、水枕をして寝ている息子がかわいそうでならない。

その後回復し、予定より2日遅れで11月17日に移植。順調に3週間で無菌室を出て一般病棟へ。
12月28日退院。

移植をして1年8ヶ月息子はあのときの辛さ、苦しみは悪い夢でも見たかのように、髪の毛もふさふさになり何事もなく毎日学校に通っています。しかし右脳に腫瘍があったため右耳はほとんど聴力がなく、さらに顔面麻痺があり少し顔がこわばっています。そのことを友達に指摘されたりしていて、合併症というハンデを持って生活しています。でも息子はめげません。持ち前の明るさで乗り切っています。
そして私は−「再発」という言葉が脳裏から消えることはありませんが、そればかりを考えて暮らしていても仕方がないことなので、息子を見習って1日1日楽しく、今までの辛く長い入院期間をこれから楽しいことで埋めてあげたいと思います。そしてお兄ちゃんの突然の発病のため生後6ヶ月から託児所や保育園で育てられた妹も3歳半になり、今後成長していく上で「私はお兄ちゃんの犠牲になったの?」と思われないように育てていきたいと思います。

静岡は主人の転勤で訪れた街そこで身内も親戚もいないで家族4人で乗り越えてきた。 この先、どこに転勤になっても静岡は忘れられない第二の故郷になってしまいました。 そして偶然とはいえ近くにこんなにすばらしい病院があり、ここまで息子を元気にして下さった先生方、看護婦さん、保母さん、B2病棟の方に本当に感謝しております。 ありがとうございました。

           *****こども病院への提案*****

親として一番心配な時間は誰もが同じ「深夜」です。面会時間の午後5時を過ぎ、帰宅はしたものの心は病院に自分が寝るときに「うちの子はどうしているのかしら。もう寝たかしら。」と親なら誰でも思うでしょう。
しかし翌日午後3時の面会時間に行ってみると、その日の日勤の看護婦さんが子どもの状態は話してくれるが「昨晩はどうでした。吐いたりしていませんか」と訪ねると「カルテに何も書いてないので何もなかったと思います」 出来れば深夜勤務の看護婦さんに話を聞きたいところだが無理な話。一般病棟では諦めていたが無菌室となればなおさら聞きたい。泊まり込みたい気持ちを抑えて帰る私たちにとって当然である。
そのことをある看護婦さんにお話ししたところ、「深夜は看護婦の数も少ないのでちょっと難しいのですが、私も子供を持つ母親なのでお母さんの気持ちは分かりますよ」その後その看護婦さんの深夜勤の時、紙切れに「こうじ君のお母さんへ… せき一つせずによく寝ていました」というメモが机の上に置いてあったのです。昼間咳がひどく「夜は咳がひどくて寝られないのではないか」と心配をしていましたのでそのメモを見たときは本当にありがたいと思いました。「何もなかった」とはいえ、「よく寝ていた」の一言でほっとするものです。

親と看護婦さんの間で交換日記のようなものがあれば、口で言いにくいこと、聞きにくいこと(特に子どもが幼児であると自分で症状を話せないので)など、書くことによって不安が癒されるのでは。
毎日でなくとも状態が良くないときには特に深夜のことが知りたいと思いました。特に無菌室では担当の看護婦さんだけの出入りだけですし、何かあってもおかしくない状態ですから是非深夜の様子を知らせて欲しいと思います。